| 倉見駅 (くらみえき) 相模線の開業当時からの駅舎を今でも使っています。 |
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| 水神宮 (すいじんぐう) 水神宮は水難禍を除くために川、泉などの水辺に祀られます。この水神宮は、相模砂利株式会社が昭和4年4月に建立したものです。この地はかつて観音堂(現在は中倉見)が焼失した時の灰を集めた灰塚と呼ばれていた地です。 ・相模五郎の碑 |
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| 旧桜堤 (きゅうさくらづつみ) 堤防は文政年間(1818〜1829)相模川の水害を防ぐため、皆川三郎右衛門氏の努力により築堤されました。桜は明治34年(1901)真田喜三郎氏が堤に1000本の苗木のうちの800本を植え、昭和初期には県下の桜の三大名所に数えられ、この地域が「桜町」と呼ばれるようになりました。賑わった堤の桜も戦争の犠牲となり昭和17年と20年で木炭などに伐採されてしまい、現在真田氏の桜は行安寺と寒川小学校校庭に残るのみです。 |
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| 十二天神社 (じゅうにてんじんじゃ) 十二天は神話にある土地の守り神「天神七代と地神五代」や「東、東南〜東北の八方をつかさどる護世八方天に天地日月を加えた12の方位を守る十二神」の説があります。後者はインドにおいて信仰されていた神々が仏教に取り入れられまとめられたものです。 ・庚申塔 青面金剛像 享保12年(1727) 7月6日 ・庚申塔 文字塔 台座:天保十三壬寅年二月吉日 *庚申塔 は道標を兼ねているものがあります。 この2つの庚申塔は日鉱金属の近く、海老名との境にあったものが土地改良で移されました。 |
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| おちょん堀 (水の文化史碑) (おちょんぼり) 江戸時代「おちょう婦人」が田の水で困っている人々のため用水路をつくったという言い伝えがあり、子孫である永野三朗氏が昭和55年7月に記念碑を宅地の一角に建てられました。 |
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| 原の道祖神 (はらのどうそじん) 単体舟型光背型道祖神、延享3年(1746)町内で二番目に古いものです。 道祖神はいろいろな信仰を含み、旅の神、道の神と考える人は多く、人の一生を旅にたとえて妊娠・出産・幼児守護・良縁・和合等の性格を持つようになりました。また、村の入口や峠などに祀られているところから境を守る神、悪魔を追い払う神ともいえます。 小正月(1月14日)に子供たちが道祖神のある所でどんどん焼きをするところから子供の神でもあります。 |
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| 行安寺 (ぎょうあんじ) 宝積山 了覚院 浄土宗 開山(寺を建立した僧) 成阿上人 天正7年(1579)9月13日没 開基(寺の創始者) 地頭 高木清方 慶長4年(1599)没 ・本尊 阿弥陀如来 天正10年(1582) 阿弥陀如来は、あらゆる衆生を救済するために四十八の大願を成就して仏となり、現在も西方浄土にあって慈悲による永遠の救いをするといいます。 この本尊は湛慶作と伝えられ、制作年代がわかっている町内の仏像では最古のものです。 脇侍 (向右) 観音菩薩 江戸時代作 鎌倉大仏師三橋佐五右衛門 作 (衆生の苦難を救うといわれています) (向左) 勢至菩薩 江戸時代作 (智慧をあらわします) 町指定重要文化財第16号 (平成3年4月1日指定) 【境内の文化財】 ・長崎玉淵の碑 ・馬頭観音 ・名号塔 ・地蔵尊 ・石灯籠 ・名号塔 ・石幢(六地蔵) |
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| 高木清方の墓 (たかぎきよかたのはか) 高木甚太郎清方は尾張小川城主水の下野守信元に属し、戦功をあげ信元亡きあと織田信長の命を受け佐久間右衛門尉信盛に属し、その後水野和泉守忠重に属しました。天正19年(1591)旗本となり倉見に680石を賜り、東西42間(76m)、南北24間(43m)の屋敷に住んだと寛政重修諸家譜や新編相模国風土記稿に書かれています。 法名 宝積院殿願誉浄林大居士 甚右衛門清本 220石 高木甚太郎清方 安右衛門清実 240石 甚兵衛清吉 220石 |
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| 倉見神社 (くらみじんじゃ) 熊野社と宮原村観蔵寺持ちの神明社が明治2年(1869)に合併され、倉見神社となりました。 ・本殿 寛保元年(1741)寒川神社の本殿として造営されたものですが、明治27年(1894)に倉見神社の本殿とされました。四方に十二支の彫刻が施されています。 町指定重要文化財第4号 (昭和53年12月1日指定) 【境内の文化財】 ・夫婦欅 ・浅間大神碑 ・道祖神 ・手洗石 ・石灯籠 ・鳥居 ・神明鳥居 ・狛犬 ・震災の碑 |
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| 夫婦欅 (めおとけやき) 樹齢は100年以上と推定され、根元から2mほどのところで二股に分かれているので夫婦欅と呼ばれています。幹周りは大きいほうが5.2m以上、高さは20mあり、指定文化財としては町内唯一の天然記念物です。 町指定重要文化財第5号 (昭和53年12月1日指定) |
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| 倉見才戸遺跡 (旧日鉱ひかり社宅地内遺跡) (くらみさいどいせき) 平成3年の日鉱金属ひかり社宅建て替えに伴う発掘調査をはじめ、4度の調査が実施されました。その結果、弥生時代中期の大型住居や環濠(村のまわりにめぐらせた溝)、弥生時代後期の竪穴住居や環濠を中心に、古墳時代、平安時代の住居などが確認されました。 特に、弥生時代中期の大型住居は相模川沿岸ではめずらしく、出土した土器や石器からは東海地方の影響がみられるものもありました。 出土品の一部は文化財学習センターで見ることができます。 |
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| 陣屋跡 (じんやあと) ここは、江戸時代初期に倉見村を治めた旗本高木清方の屋敷跡周辺と伝えられています。その後同家は江戸に移り住み、この地は畑となりました。現在この一角に石仏が寄せられています。 ・五輪塔 ・道祖神 ・地神塔 |
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| 才戸の地蔵尊 (さいどのじぞうそん) 左 正徳3年(1713)造立 右 寛政12年(1800)造立 |
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| 大村の地蔵尊 (おおむらのじぞうそん) この地蔵尊は「子育て地蔵」とも呼ばれ、今から200年前から伝わる地蔵講が毎年8月下旬に35、6軒の講中の女性たちにより行われていました。安永9年(1780)鋳造の鉦をたたきながら1本立てた線香が燃え尽きるまで念仏を唱えます。その後、日頃苦労しているお嫁さんもご馳走を食べたり話し合ったりと女の正月を楽しみました。 ・庚申塔 角柱型 2基 ・庚申塔 文字塔 1基 |
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| 才戸の道祖神・庚申塔 (さいどのどうそじん・こうしんとう) ・道祖神 双体立像合掌型 ・庚申塔 角柱錘型 |
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| 観音堂 (行安寺末 倉見山観音寺) (かんのんどう) 観音堂は、かつて観音寺と称し、八王子街道と永池川の間、現在の水神宮付近に建てられていました。安政の頃、旅人の火の不始末から火事となり、ご本尊が焼けないよう永池川に投げ込んだと言われます。その後、本尊は岩田伝兵衛の網に入り、長崎喜兵衛が土地を提供され現在地に安置されました。 行安寺に碑のある長崎玉淵は阿波(徳島県)の武士でしたが、観音堂の住職となりここで寺子屋を開き幕末から明治初年にかけて手習師匠をしました。明治5年8月学制が布かれると観音寺境内の畑を借り公立学舎として徳彊学舎を明治6年8月に設立、明治9年5月に倉見学校と改称されました。明治10年倉見学校と宮山学校が合併し旭学校(現在北部文化福祉会館の地)ができるまでこの地は教育の場として多くの子弟を育てるところとなりました。 ・本尊 銅造千手観音立像 町指定重要文化財第18号 (平成4年9月1日指定) 入口の石造 ・巡拝供養塔 中世石塔断石 |
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| 中倉見の庚申塔・道祖神 (なかくらみのこうしんとう・どうそじん) 祠は柴田はるさんが願掛けのお礼に建てられたものが古くなったので、南町20名の有志で立て替えられました。 祠の向きが道に背を向けているのは、昔の道が祠の前を抜けていたからで、小川も流れていたそうです。 ・道祖神 |